10円おばちゃん おまけ:うちんち⑪
「10円ちょうだい」
20年も昔の話だが、雑踏の中で、手当たり次第行きかう人々に「10円ちょうだい」と声をかけ続けていたおばちゃんがいた。
職場では彼女のことを10円おばちゃんと呼んでいた。
「私も見た」「私もあった事ある」
眉間にしわを寄せて、上司の悪口しか言わない女子職員たちも、10円おばちゃんの話だけは嬉々として話していた。
10円おばちゃんは町の有名人だった。しかし、そこに期待の新星が現れた。
絨毯おばちゃん。
ドレッドヘヤーのようにチリチリの髪は地面すれすれまで伸びきっていた。その長いドレッドヘヤーが絨毯のように一枚に織り込まれていたのだ。
一本ではない。一枚なのである。背中に黒い板が張り付いているような髪型なのだ。きれいに編み込まれた髪はもう何年も洗っていないようで、毛羽立った古い絨毯のようになっていた。
ぼろをまとった絨毯おばちゃんは一日中地下街をさまよっていた。
「絨毯おばちゃん見た!」「私も会った、会った」
絨毯おばちゃんの登場で、10円おばちゃんの存在が薄らいでいった。
そんな中、10円おばちゃんの姿が駅前から消えた。
数年後、別の駅で10円おばちゃんを見ただとか、あまたの噂は聞いたことはあるが、あれ以来私は見ていない。
「にいちゃん、たばこ一本くれや」
と、突然交差点で話しかけてきた初対面のオヤジに煙草を一本さし出すと
「そっちくれや」
と、箱ごと持っていくようなオヤジたち。
最近見かけなくなったが、昔はそんな人たくさんいたなぁ〜。と、開発、開発で変わりゆく街並みを眺めながら感慨にふけるのだった。
( ̄ロ ̄)
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うちんち⑪
ほどなくして、源三郎と花梨は先日の女性の家を訪ね、一匹の子犬を譲り受けた。花梨は自宅に着くまで、片時も子犬を離さなかった。子犬は、源太が幼少の頃に大のお気に入りだったボロ毛布を宛がってもらい、トテトテと格闘している。
「いつまでも〝赤ちゃん〟やったら可哀そうやろ。名前決めてあげんと」
夕食を食べながら源三郎が言うと
「花梨が決める!」
花梨が息巻いた。あーでもない、こーでもないと悩みに悩んだあげく、
「源太が小さくなったみたいだから、小源太!」
となり、子犬はめでたく〝小源太〟と命名された。佐藤家の家族がまた増えた。
数日後。源三郎の手によって、源太の小屋の横にもう一つ、立派な犬小屋が建てられた。源太は、やたらとじゃれついてくるパワフルな新入りから解放されてホッとしたのか、居候がいなくなって広々としたマイホームで寛いでいる。小源太は新築の小屋が落ち着かないのか、前足でカリカリと壁を引っ掻き、源三郎の汗と苦労の結晶を、早くも壊しにかかっていた。
当初は小源太を猫っ可愛がりしていた花梨だったが、花梨の大事にしているクマのぬいぐるみ(さつきの形見)をバラッッッバラにされちゃったり、お気に入りの洋服をパッチワーク仕様にされちゃったりするうちに
「こらぁ小源太! なんちゅうことさらしよんねん!」
と、怒鳴らない日が無いほどになっていった。
小源太が家族に加わったことによる一番の被害者は、源太だった。花梨のみならず、小源太にもめちゃくちゃにされる羽目になったのだ。
源太は小源太にいくら悪戯されても、じっと黙って、されるがままになっている。が、度が過ぎると
――ワウ!(コラ!)
と怒り、小源太の教育係もしっかりやってくれた。
花梨と源太、小源太を連れて、二人と二匹で川沿いの土手を散歩するひとときが、源三郎にはとても幸福な時間だった。
師走。肌寒い風が吹き始め、冬至も近くなった頃――
滅多に病気をしない源三郎だが、今日は朝から妙だった。なんとか花梨は学校へ送り出したが、頭痛がどうにも収まらない。
――風邪でも引いたんかな……?
最後に風邪をひいたのは何十年も前のことで、記憶にも無いほどだ。春の健康診断で血圧が高いと言われたが、特に自覚症状はなく、たいして気にも止めていなかった。
――今日は、休むか――
希望の里に勤めること一〇年、源三郎は初めて病欠の連絡を入れた。
――昼までに医者行っとかんとな――
夕方には花梨が帰ってくる。午前中のうちにと、源三郎は近所の診療所に出かけた。
「まぁ、風邪でしょう。もう古希やさかい、無理せんで下さいよ」
初老の医者が、聴診器で源三郎の胸を撫でて言った。感冒薬を数日分処方された。風邪を歳のせいにされたような気がして、源三郎は憤慨した。診療所は混んでいて、帰り着く頃には結局、昼の二時を過ぎていた。
頭の中で除夜の鐘が鳴り響いているようだ。全身に力が入らず、体が言うことを聞かない。
――夕飯の用意せな――
台所に立つには立ったが、鐘の音は次第に大きくなってくる。源三郎は立っていられなくなり、その場にしゃがみこんだ。
――どないなっとんねん――
源三郎は冷や汗を流しながら、必死に立ち上がろうとした。次の瞬間、源三郎の意識が途切れた。
「おじいちゃん! おじいちゃん!」
学校から帰って来た花梨が、真っ先に台所に倒れている源三郎を見つけた。肩を揺すったが、源三郎は一向に目を開こうとしない。源三郎の状態が尋常でないことは、まだ八才の花梨にもわかった。花梨は急いで幸子に電話をかけた。
「おばちゃん、おばちゃん! おじいちゃんが……おじいちゃんが……!」
事情を聞くと、幸子は花梨に言った。
「花梨ちゃん、いい? 落ち着いて、救急車呼んで。何番か分かる? 一一九やで」
「うん。一一九」
花梨は幸子の言葉を反芻した。
「おばちゃんすぐ、そっち行くさかい」
「うん」
花梨は受話器を置き、今教えてもらったとおり、一一九番に電話をかけた。
五分後。けたたましいサイレンと共に、救急車が佐藤家の前に横付けした。
「患者さんはどちらですか?」
花梨は救急隊員の手を引き、台所へと急いだ。救急隊員が源三郎をストレッチャーに乗せ、救急車の中へ搬送した。
「お家の人は?」
救急隊員の一人が、花梨に聞いた。
「花梨と、源太と小源太」
花梨が答えた。
「源太?」
救急隊員が聞き返すと、とっさに、花梨は犬小屋を指差した。隊員は事情を察し、困った様子で
「ああ、じゃあお嬢ちゃんだけか……おじいちゃん、今から病院行くねんけど、お嬢ちゃんも一緒に行くか?」
と花梨に聞いた。花梨はうなずき、救急車へ乗り込んだ。救急車の中で救急隊員が花梨に
「おじいちゃん幾つ?」
「どうして倒れたの?」
などと質問を浴びせかけた。花梨は動揺しながらも、隊員の質問に答えるのだった。
「年齢七十歳、男性。意識喪失。JCS三桁」
隊員が無線機で早口に話している。一〇分ほど走った所で救急車が止まった。〝救急搬入口〟と赤文字で書かれた大きなドアが、あんぐりと口を開けた。源三郎はストレッチャーに乗せられたまま救急車から降ろされ、その中へ吸い込まれて行った。花梨も走ってついて行った。中に入ると、医師や看護師が源三郎を取り囲んだ。
「おじいちゃん! おじいちゃん!」
花梨は泣き叫んだ。看護師の一人が花梨の手を引き、廊下へと連れ出した。
「お名前は?」
看護師が花梨に聞いた。
「佐藤花梨」
花梨が答えると、看護師は言葉を続けた。
「ごめんね。おじいちゃん、今頑張ってるから、花梨ちゃんここで待っててくれへんかな?」
花梨がうなずくと看護師はにっこり笑い、
「えらいなぁ」
と花梨を褒めた。
「そうや、電話!」
花梨は看護師に頭を下げ、その場を離れて電話を探した。電話は病院の受付のすぐ横に設置されていた。すぐに受話器を取ったが
――あっ、お金持ってへん――
花梨はそう気づいて、受付の女性に言った。
「すみません。家に電話したいねんけど、うち、お金持ってへんねん。後で返しますよって、一〇円貸してもらえへんやろか?」
「ええよ。かけてあげるさかい、番号は?」
女性は病院の電話で家にかけてくれた。
「ありがとう」
受話器を花梨が受け取ると、幸子が既に電話の向こう側にいた。
「花梨ちゃん、今どこ? どこの病院?」
「えーっと。ちょっと待って」
花梨は受話器の口元を手で押さえ、女性に病院の名前を聞き、それを幸子に告げた。
「分かった。すぐ行くな」
幸子はそう言って、電話を切った。
〝救急処置室〟と書かれた部屋の前のベンチで、幸子と花梨が、不安のどん底に沈み込んでいた。
しばらくすると、白衣姿の医師らしき男が処置室から現れた。
「ご家族の方ですか?」
医師が幸子に聞いた。
「そうです」
即座に幸子が、ベンチから立ち上がって答えた。
「こちらへ」
医師の後に幸子が続いた。花梨もベンチから立ち上がったが、幸子に制された。
「花梨ちゃんは、ここでちょっと待っとって」
花梨は不満だったが、再度ベンチに腰を下ろした。その場で幸子の帰りを待ったが、幸子はなかなか戻ってこなかった。
――グゥ~……
急に花梨の腹の虫が泣き出した。
――お腹空いたな――
しばらく腹の虫と闘っていると、腹の虫が〝参った〟したのか、空腹感が薄らいできた。と同時に、眠気が花梨を襲った。花梨はベンチに横になり、眠ってしまった。
「花梨ちゃん……花梨……」
――幸子おばちゃんの声――
「花梨ちゃん。花梨ちゃん」
花梨が目を開けると、幸子の顔がアップで目に飛び込んだ。
「おばちゃん」
花梨は即座に起き上がった。
「おじいちゃんは? おじいちゃん、死なへんよな?!」
花梨は必死の形相で幸子に尋ねた。
「命に別状は無いんやって。おじいちゃん死なへんて」
幸子が答えると
「よかった~」
花梨は肩の荷が下りたように、ほっとしてベンチに座り込んだ。
「せやけど……」
幸子が言葉を続けた。
「しばらくの間、おじいちゃん入院せなあかんねやて。花梨ちゃん、おばちゃんのお家にお泊りに来る?」
花梨は少し考えて幸子に答えた。
「ん~。小源太いてるし、お家に帰るわ」
「そう。花梨ちゃんしっかり者やから、大丈夫や思うけど、寂しあらへん?」
幸子が心配そうに、花梨の顔を覗いた。
「うん。大丈夫やって。源太もおるし」
「そう。せやったらええけど。今日はもう帰ろ。おじいちゃん、今日はもう寝てもうたから、明日会いに来よう」
「うん」
幸子に手を引かれ家路に着いた。だが花梨は、後ろ髪が引かれて仕方が無かった。
その夜。花梨は初めて、源三郎がいない夜を過ごした。寂しくない、と幸子に豪語した花梨だったが、やはり一人になると寂しさが募るのだった。いつもはうるさくて文句ばかり言っていた、源三郎の大きないびきが聞こえない。あまりにも静かな夜が、花梨の不安を煽った。花梨は犬小屋に行き、急いで源太と小源太を犬小屋から連れ出して部屋へ入れた。川の字で布団に入ると花梨は源太に話しかけた。
「おじいちゃん、大丈夫やんな」
源太はつぶらな瞳で花梨を見ている。
――大丈夫だよ。僕達のお父ちゃんやねんから――
花梨は、源太がそう喋ったような気がした。
「そうやんな。大丈夫やんな」
そう言って、花梨は小源太を両手で力いっぱい抱きしめた。花梨の不安は頂点に達し、涙が溢れた。
「……おじいちゃん」
花梨は、源太の体に顔を埋めて泣きじゃくりながら、眠るのだった。
つづく