学校なんて大嫌い
私は学校が嫌いだ。小学校の頃から大嫌いである。雨や雪が降った日なんて朝からドーやって休んでやろうかとばかり考えていた。母親の目を欺くために体温計(当時は水銀)の温度を程よい37.1℃程度に上げる方法を模索する毎日だった。
中学に入ってからも事あるごとに休みまくった。高校でもそうだった。なんだろう?決して不登校という訳ではないが月に3回程度から5回程度まぁ、簡単に言うと勝手に週休二日にしていたわけだ。(当時は土曜日も学校だったので)
さて、話を戻して、この学校嫌いはどこから来るのか?友達もいたし、学校に行けば行ったで、友達と馬鹿話に花を咲かせていた。でも、そこはかとなく学校が嫌いなのだ。そんなのは全員そうだ。と言われればそうなのだろうが、とにかく嫌いで嫌いでしょうがない。ではなぜ嫌いなのだろうか?と自己分析してみる。
何が嫌いなのか?言わずもがなだろうが、教師がとにかく嫌いである。人にものを教えてやってるのだから、私は偉いのだ感がたまらなく癇に障る。
給料もらってるから職業としてやっているに過ぎない一社会人である教師と近所の八百屋のおっちゃんと何が違うのかまったくもってわからない。
八百屋のおっちゃんだって、野菜博士であり、今の時期はラディッシュがうまいのだ。なんてうんちくを教えてくれることもある。私の知らないことを教えてくれる。つまり先生なのだ。私はそんな話は大好きだし、質問だってしまくる。
では、学校の教師と何が違うのか?
それは、教師が無意味に偉そうで高圧的で暴力的だからだろう。今は体罰こそ少なくなったが、その分言葉の暴力や高圧的態度は威力を増している。
また、学校というところは、学問だけ教えておけばいいものをなぜか、生活指導的な要素を入れたがる。そこもたまらなく嫌いだ。
50歳を超えた生徒がいるような教室で、「茶髪はだめだとか」「ピアスは駄目だとか」学問となんの関係があるのかわからないオリエンテーションを何時間も繰り返す。一コマ計算で何万円もする講習の内容がこれか!と思うと涙が出てくる。
私は学校は嫌いなのだが、私は元来好奇心の塊君なので、事あるごとに年を重ねても学校に行く羽目になってしまう。
時代は平成に代わっても、教師の本質は何も変わらない。どこか、生徒を馬鹿にしているというか奴隷のように思っている節がある。
なぜだろう?なぞだ。
私の知り合いでも教職についている奴らはいるが、酒を飲んでいる場合は普通の大人。普通の人。偉そうなそぶりもない。話を聞いていると同情したくなるようなことだってたくさんあるくらいだ。
なのに、私の行く学校と呼ばれる場所で働いている教師や事務員たちはこぞって生徒を囚人扱いしたがる。どうしてだろう?学問を学ぶということは罪人扱いされるべきことなのだろうか?
教師ではないが、年を重ねて、人にものを教える=(伝える)世代になりつつある私だが、決して偉いわけではない。彼らよりちょっと先に業界に入っただけだ。逆に彼らから教えてもらうことの方が多いような気さえする。
私は後輩たちに免許を持ったから「先生」になるわけではなく、患者さんや家族の人たち、あるいは関係職種の人たちの「感謝」「ありがとう」が集まって、初めて「先生」にして貰える。「感謝」が集まらないうちの「先生」はあだ名でしかない。と後輩には伝えている。(偏った先生感だとは思うが、私個人としてはそう伝えている)
「先生」と「教師」は別物だとすると、なぜあいつらは「先生」なのだろうかとも思う。知識を金に換えているのだから、セミナーの講師と何が違うのか?お料理教室の先生は別に偉そうにしないし、竹細工の先生だって、別に偉そうにしない。いろいろ知らないことを教えてくれる、お坊さんだって偉そうなわけではない。人間たいしたことのない、わずかな特権でも持っちゃうと、馬鹿になっちゃうのかな~。
はぁ、学校嫌いだなぁ。明日も学校か~。憂鬱。
でも、学問は好きなんだよね~。また、何か免許的なものや学位的なものをくれるという対価(目に見える褒美)のない学問ができるほどお心強くないんだよね~。ん~。悩ましい。